私たち日本人は「絆」という言葉が大好きです。人と人との結びつき、支え合いや助け合いといった、心に響く美しい意味があるからです。大規模災害が起きるたびに耳にする言葉でもあります。非常時には他人の支えがないと生き延びることができない、その現実を再確認するからです。
しかし「絆」には本来別の意味があるそうです。それは、しがらみや束縛です。同じ言葉でも、見方を変えると否定的に響きにます。束縛は強いストレスとなって、私たちは苛立ちを感じるようになります。
最近は法事でもごく近親の人しか案内しないことが増えました。それは遠い親類に頼ることがなくなったからでしょう。同じように、地域とのつながりも薄くなりました。農作業を共同で行うことが減り、葬祭を業者が全て行うようになると、助け合わなくても何とかなるからです。これを否定するつもりはありません。受けるメリットが少なくなった今、人間関係に苛立ちを感じるのであれば、つながりが減っていくのは自然なのかもしれません。
私たちは思い通りにならないことが嫌です。思い通りにならないと、心に苦しみを感じます。ですから他人に干渉されずに、思い通りになる範囲で生きていたいのです。しかしながら、他人は私の思い通りになりませんから、思い通りになるのは、極論すれば私以外誰もいない世界になってしまいます。苛立ちはなくても空しい世界です。つながりを大切に感謝が生まれる世界に生き、皆それぞれの思いを持っているのだからと、逆に進んで苛立ちも受け入れる選択が、これから大切になるのかもしれません。
意外なことに、親戚の法事には行ってやりたいが、自分が死んだら呼ばなくていいと言う人が多いようです。借りを作りたくないということでしょうか、それとも?
これからの「絆」を考えるヒントが隠されているような気がします。