2024年5月のことば

私たちの人生の争いは いつも 善と善との争いだ

「善と悪」の争いならわかるのですが、「善と善」が争うとはどういったことでしょうか。卑近な例で恐縮ですが、我が家のことでお話しします。

結婚して数年間は、掃除の仕方で妻とよくケンカをしました。私は「手間をかけずにほどほどに」という性分です。妻は綺麗好きなので「やるからには徹底的に」と主張します。妻がいつも掃除をしてくれるのであれば問題ないのですが、出産前後で体が辛い時はそうもいかず、私が担当しました。すると「あそこが汚れている」と言われケンカになるのでした。妻もナーバスになっていたのでしょうね。

若い頃はこの問題を解決できませんでした。妻の言い分はわかるけど、自分の流儀にも一理あって譲る必要はないと意地を張っていました。作家の遠藤周作は、この自分の価値観を他人に押し付けることを「善魔」ということばで表現しています。自分が正しいと思っているので、相手の立場や事情になかなか気づかない。それは悪魔よりたちが悪いというのです。

しかしそのうちに、妻は汚れに対して耐えられないのではないかと思い至るようになりました。「清潔感」というのは成長と共に形成されて、情動の深いところに支配されるそうです。話し合って妥協点が見つかれば良かったのですが、それはうまくいきませんでした。私の知っている音楽家には、騒音に強い拒絶反応を示す人がいます。何かに敏感であったり強いこだわりがある人ほど、それが満たされないときに強いストレスを感じることがあるでのでしょう。

そう捉えるようになってから、私の対応は少し変わったりました。ズボラなのは相変わらずですから「綺麗になっていない」と怒られながらですが、「はいはい」と言ってそれ以上は争わなくなりました。綺麗にするための私の苦しみより、綺麗でないことによる妻の苦しみの方が強く、それを優先したいと思うからです。

また、私自身が気持ちの上で楽になりました。同じ家に住んでいるからといっても、私の善と妻の善は、そもそも同じである必要はなかったのでした。妻が好きな映像作家は私は嫌い。私が「食べごろ」と渡した焼肉を妻は「生焼け」と焼き直す。それを笑って言えればいいのではないでしょうか。陰で我慢することがないように、一緒に暮らす父母や子供を含めて、「善のグラデーション」を認められるようなりたいと思います。これも押し付けてはいけませんが。