仏教と遺骨

仏教と遺骨

お釈迦様の遺骨
意外なことですが、お釈迦様が活動したインドでは遺骨を埋葬する風習はありません。ヒンドゥー教徒たちは亡き人を火葬し、その遺骨を聖なるガンジス川に流したり、近くの聖地に散骨することはありますが、個人の墓地に埋葬して大切に保管することはないようです。

ところが、お釈迦様の遺骨(仏舎利)はそうではありませんでした。お釈迦様は80歳で亡くなりましたが、その遺骨は信者に分配され大切に扱われたのです。何故でしょうか。
それはお釈迦様が特別な存在だったからです。悟りを開いた偉大な宗教者ですから、遺骨を供養すると絶大な功徳があると思ったのです。お釈迦様の死を知って多くの人が遺骨を欲しがり、争いが起こりそうになったと伝えられています。

結局遺骨は平和に8等分され、容器と残った灰を加えて10の聖遺物として各地に奉納されました。遺骨は後日、ストゥーパと呼ばれる巨大な建造物で覆われるようになりました。当時まだ仏像はありませんでしたから、ストゥーパはお釈迦様を偲んで礼拝するための重要な施設だったのです。

中国や日本における変化
仏教が中国に入ると、ストゥーパは漢字を当てて「卒塔婆」さらには「塔」と呼ばれるようになりました。善通寺に五重塔がありますが、その目的は仏舎利を安置して礼拝することです。またお墓に立てる卒塔婆は切り込みで五段になっており、五重塔を表現しています。

中国では先祖崇拝を特に大切にしますから、中国仏教にもそれが色濃く反映されました。中国仏教を輸入した日本でも同様で、先祖の遺骨を埋葬して弔うようになりました。亡き人を偲ぶ心を通して信仰に目覚めていく道が大きく開かれたのです。インドで生まれた仏教は、極東の日本で柔軟に大きく発展しました。

生きた証としての遺骨
遺骨は亡き人が、自分と同じこの世を生きた証です。お墓に納めて居場所がわかっているから、安心していられるのです。もしも遺体・遺骨がどこにあるかわからなければどうでしょう。遺族は永遠に不安な日々を送らねばなりません。太平洋戦争の遺骨収集事業、東日本大震災津波や知床遊覧船事故での行方不明。亡くなった事実を確認できず、今なお苦しみを抱えて過ごす遺族に心から同情します。

郡家別院の納骨
照円寺でも納骨は受け付けていますが、丸亀市で納骨と言えば郡家興正寺別院が有名です。私もスタッフとして10年余り関わっています。明治初期に亡くなった興正寺27世、本寂上人の分骨をお迎えして郡家町に廟所を作り、それを機縁として作られたのが郡家別院です。

廟所が元になっていますから、多くの方が大切な人のお骨を納骨してきました。郡家別院では納骨を使って「骨仏」と呼ばれる等身大の仏像を作ります。仏に手を合わせるとご先祖さんにも手を合わせることになるので、たいへんありがたいと好評です。「遺骨」という物質的なものが、人の心に安心をもたらしていると実感します。

幼い子供の死
受け付けた納骨永代経の情報は、納骨台帳に記入して永久保存してきました。しかし台帳は紙でできていますから火災が心配になり、パソコンに入力して電子化しました。するとその過程で、明治・大正期の古い台帳には○○童子、△△嬰女という、成人する前に亡くなったことを示す法名が多いことに気づきました。

調べてみると、子供の納骨は当時全体の何と4割(!)を占めていました。今では考えられないことです。旧厚生省のデータを調べると、明治~大正生まれの平均寿命は男女ともに45歳程度だったようです。当時は医療が身近になかったから死産・乳幼児の死亡が多く、平均寿命を引き下げたということでしょう。

せっかくこの世に生まれながら、大人になる前に死んでいった子供たち。遺族はどんな気持ちで見送ったのでしょうか。親ならば逆縁に涙を流し、せめて死後の成仏をと、祈るような気持ちで納骨したのでしょう。兄弟ならば、お前の分まで長生きするぞと強く思ったでしょう。

人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば

『白骨のご勧章』の一節です。老少不定というのは、死ぬのに年齢は関係ない、若くして死ぬる命も数多あるということです。つい100年前まではそれが当たり前、いや人類の歴史の(ほぼ)全てが老少不定だったのです。

最近では海洋散骨や樹木葬などが人気です。それを否定するつもりはないのですが、イメージだけが先行しているように思えてなりません。後の世代が故人を偲ぶためにも、日本の伝統的なやりかたが守られていくことを願っています。